第16回 食は道徳を超える(パート2)

参加者

  • 渡邊 達生(八洲学園大学 教授)
  • 内田 正幸(食品ジャーナリスト)

お膳立てしすぎない食

内田-

渡邉先生は、食の在り方を解るためには、お膳立てされていない状況を経験する必要性を指摘されました。

渡邉-

その観点からいえば給食も良し悪しです。毎日、栄養士さんが献立を考え、しかも飽きのこないように調理してくれていますが、お膳立てしすぎている印象を受けます。栄養や楽しさなども満たす、完璧なお昼の食事を実現しようとしてくれているのです。それはいいことです。が、その結果、お母さんたちは「我が家では多少手抜きをしてもいいかも」となってしまうのです。教育のあり方、という原点に立てば、本来は逆でしょう。家庭できちんとした食事を摂る環境を整え、学校はあくまでも補助。極端に言えば学校給食ではリンゴ1個、パン1個、牛乳1本などの最低限のものを用意し、後は家庭で判断して必要な分を持参、というのが食の本来の分担の在り方のはずです。大分県で小学校の教諭をしていた時、そこらあたりのゆがみの是正と、教師の仕事量を減らすために、給食を大層なものにしない、給食を廃止し弁当持参に、と教育委員会に提案したことがありました。最近、教師の働く時間はブラック企業以上に多く、仕事量を減らすべきだ。と、働き方改革の論義が起きて、実行されているところもあるようですが、当時も、教員の仕事は超過密で、始終、気の休まる時がありませんでした。その改善を求める一環でした。給食は、地域が米作農業中心であることから、完全米飯給食。毎日の給食がご飯でした。それはそれでいいことのようにあります。が、各教室では給食当番の子どもが、毎日、多くの子どもたちのおわんにご飯をよそおう作業が行われます。限られた給食時間の中で行わなければならないことです。他のおかずなどの配膳もあります。適切に、スピーディーに、安全に、衛生的に行われるよう、教師が適切な指示をする必要もあります。子どもは気ぜわしくしているのですが、結構時間な時間がかかり、その間、教室内も雑然として、ほこりも舞い立ちます。30分間で、そのような準備、食事、あとかたづけをこなすとなると、あわただしいのです。落ち着いた雰囲気をつくるために、せめて「ご飯だけ弁当持参に」と再提案しましたが、これも受け入れられませんでしたね。今思えば、わたしも若かった。昭和のときの思い出です。

内田-

給食廃止が受け入れられないのはなぜでしょうか。

渡邉-

給食産業ができ上がっていて、食材を学校給食用に卸すことで地域経済が成り立っている一面があるからでしょうか。もう一つは、開かれた学校にという現代の風潮の中で、家庭からの要請・クレームを吸い上げて教育行政に生かすことが大事になっている、ということもあるでしょう。給食は学校の役目になっています。お膳立てし過ぎない給食への改変を阻んでいるのも、そうしたことへの気づかいに原因があるように思いますね。

内田-

学校給食献立コンクールや自治体主催の給食コンクールなどが盛んです。給食のメニューも豊富で、コッペパンに脱脂粉乳、プラスおかず1品だった昭和30年代とは隔世の感があります。また昔と違い、給食にリクエストを出す子どもまでいるようで、なかには「給食のデザートには高級アイスクリーム」という声まで出るそうです。さらに、給食費の未払い問題で教育現場が四苦八苦していることを考えると、給食廃止=弁当持参は頷けなくもありません。ただ、家庭における食が疎かになってきているため、補完的ではあるけれども、学校における食育の推進が求められているのが現状です。

渡邉-

そのことは否定しませんが、学校でお膳立てしすぎると家庭は段々と怠けてくるし、子どもは依頼心が強くなるという弊害が出てきます。誰のための教育なのか、何のための給食かを考えると、親のための給食ではなく、子どもが贅を楽しむのが給食ではないはずです。高級アイスクリームを出すことではありません。

内田-

学校における食育を誰が何をどのように教えれば良いとお考えでしょうか。

渡邉-

食育の現状は栄養教諭や栄養士さんが担っていますが、その人たちに丸投げせずに担任がその任に当たるのが本来です。そして教える側には、お膳立てされている食の楽しさに目先を向けるのではなく、食によって自らの命を維持することができる、それが楽しいことという、食の本来的な意味を伝えることが求められるのではないでしょうか。楽しい雰囲気を醸し出すようにつくられた食事をいただくことが楽しいのは当然のことです。しかし、その状況の中にいることをことさら取り上げることは慢心を生みます。そのようなところに食育の価値を置くよりも、食べることができる、それが楽しいことであると自覚できるところに価値を置いた方が食育の意味が出てくると思います。たとえば、ご飯。お米と水、簡易コンロに鍋があれば米が炊ける。鍋がなければ、缶ビールの空き缶、竹などを代用にして。不便であり、見栄えもしません。でもそうやってできたものを食べることは楽しいことです。そのようにして、飽食の時代に水をささなければ、大災害、緊急事態に対応することも困難です。食べることは生き長らえることであり、どのような状況にも対処できる術は身に着けておきたいものです。

内田-

食については先生たちもお膳立てに慣れてしまっているようです。食育は、私たちの食への向き合い方、在り方への疑問から始めなければならないようですね。

渡邉-

食の在り方を見直すなら、まずはお米の価値を見直すことでしょうか。日本の食は外国からの輸入で成り立っている現状を考えると、それがストップしても自給率100%へと持ち直すことができるお米の大切さを知らないといけません。戦後、日本の食は米国による小麦戦略を通して欧米化が進行し、お米の消費量が減少してしまいました。小麦戦略が米国の親切心か押し売りかはともかく、それによって日本人の食がアメリカナイズされたことは間違いありません。二つ目は、素材の価値を知ることについてです。現在は、素材をミックスしたり形を変えたりして “楽しい食事”をつくる工夫を大事にしているところがあります。しかし、より大切なことは、素材の持つ見た目の美しさや美味しさの価値を味わえるように調理して、食材の特性を伝えることです。

内田-

家庭料理もレシピ本がブームで、それを眺めると創作料理にシノギを削っている感があり、ファッション化しています。

渡邉-

その創作料理が曲者です。目新しさに関心が行き、何を食しているか、という意識や、素材への感謝がどこかに消えていきます。伝統的な料理には、地域に見合った素材を生かしつつ、それをいかに美味しく食べるかという先人の知恵が込められています。深い味わいと、それを作ってくれた人への思い出も込められているはずです。五十数年前におばあさんが作ってくれた、シンプルなとろろ汁。わたしは、今でも、ときおり思い出しては懐かしさに浸ることができます。また、八百屋の店先に並んでいた山芋を見つけたとき、それを買い求め、おばあさんの仕方を思い出して、自分でとろろ汁をつくったこともありました。いい時間でした。

【総括】(竹井塾長)

竹井 秀文

私の友人に、地域の伝統食品を作っている生産者と共同で会社を設立し、あったかいお金をを地域へ循環させるソーシャル・ビジネスを展開する社長がいる。その社長と会食したときの話です。

岐阜の美濃加茂市というところに、伝統食品「堂上蜂屋柿」があります。その起源は平安時代にはじまり、少し大ぶりで手間暇かけた干し柿。しかし、値段が高くかつ年を越すと売れないとう課題がありました。しかし、その干し柿を、在庫を抱える年明けに台湾へ輸出し、販路を拡大することに成功したのです。これには諸外国の行事に併せたマーケティングの知恵があり、これにより生産者所得向上や後継者育成、伝統産業の保護・育成に寄与することになります。

今こそ、地域が誇る伝統食品や伝統料理の価値を再認識する「学びとしての食」を展開する必要があると思います。

「それぞれん場所に、おいしかもんがあるとよ~。」

竹井塾 塾長 竹井 秀文