第17回 食は道徳を超える(パート3)
参加者
- 渡邊 達生(八洲学園大学 教授)
- 内田 正幸(食品ジャーナリスト)
子どもたちに伝えたいこと
日本の食の在り方で、あまりにも見過ごされているのは自給ではないでしょうか。
そうですね。そもそも日本は食糧の自給ができていません。日本への食料輸出国である中国が、自国民の食を満足させるために、日本への輸出をストップさせる可能性もゼロではないでしょう。その時、日本人は自前で食糧を賄って生きていかなければならなくなる。そのために伝えなければならない大切なことは自給可能なお米の見直しであり、それを主食に位置づけている日本食と伝統的な食文化です。ある人が、ムハンマドがなぜ豚肉を食べてはいけないと決めたかについて、こんな説明をしていました。それは穢れではなく美味しいからだ、と。また、砂漠地帯では人間の食料となる穀物は育ちにくいため、人間が食べるものなら何でも食べてしまう豚を飼育することは生存競争のライバルになるからだ、とも。つまり、自分たちを守っていくために、食を制御することが大事だということをムハンマドは示したというのです。もちろん、真偽は定かではありません。しかし、食を考える上で示唆的な話ですよね。資源には限りがあるわけですから、いつまでも食べ続けられる保障はありません。日本こそ食糧自給に関して大きな政策を打ち出しておかないと、深刻な事態を迎えることになりそうな気がします。
中国に関して言えば、肉食の進んだことで家畜の飼料となる輸入トウモロコシへの需要が高まり、同じく飼料穀物を輸入に頼っている日本との争奪戦が繰り広げられ、日本が買い負けしている事態が起きています。これを含めて日本人は食料の安全保障に無関心で、輸入食品に支えられた飽食、それにともなう価格の安さが食品購入の判断基準になっています。
人間はついつい安いものに惹かれ、ついつい保存期間の長いものを欲してしまう。それが、日本国内の、いわば食の帝国主義と植民地化を生む背景に潜んでいる気がします。故郷の大分でこんな経験をしました。スーパーに並んでいる牛乳は地域産とナショナルブランドの2種類がありました。どちらも国産ですが、価格は地域産が1リットルで40円高い。同じように、豆腐などの加工食品も、輸入原料に支えられた全国展開の品は大量生産で低コスト化をしているので価格が安いし保存料のお蔭で長持ちする。ところが、地元産の豆腐の価格は高い。この、価格の高いものと安いものとの二つを前にしてどちらを選ぶのか?です。本来は、地域に根差した産物を買わないと地域産業は成り立ちません。それは分かっているから迷いますが、悔しいかな、結局は安くて日持ちのするものを選ぶのが大方ではないでしょうか。わたしもそうでした。反省です。そのような選択が日本国内における食の帝国主義と植民地化をますます強固にしていくのですね。地域の食品にかかわる産業が、大企業にむしばまれていく。これからは、そのことを心して、地域産のものを求めるようにします。その反省をもとに、子どもたちにも、地域産の価値を伝えていきたいですね。地域の将来を担う子どもたちとなるように。
給食は地域産物を優先しているのでしょうか。
そういうところも多いと思います。食育で、給食の野菜が地域産であることを子どもに知らせている、という事例を、テレビのドキュメンタリー番組で見たことがあります。配膳された給食を前にして、そのニンジンは、だれだれさん方でつくってくれたもの。このダイコンはだれだれさん方でつくってくれたもの。というように説明していました。いい光景だと思いました。野菜はスーパーから運ばれてくるという常識から一歩進んで、産地を知ることができています。しかも、その産地は校区内にあるのです。それまで、通学途中に見かけていた何気ない野菜畑が、自分の命を支えるものとなっていることに気づいたのです。きっと、以後の通学途中で、それらの畑を見るたびに、そこで育っている野菜の価値を思い起こすことでしょう。また、そのことがきっかけとなって、スーパーへ親の買い物について行ったとき、野菜コーナーで地域産のものを見つけて親子の会話が生まれることもあるでしょう。そのとき、子どもの関心は親を動かし、家庭にも地域産を大切にする雰囲気が生まれるのではないでしょうか。いいことです。ただ、給食での地域産の活用は、給食費の制限があり、価格との折り合いもあるでしょうね。
ところで先生は、漢字の成り立ちにも詳しいのでお聞きしますが、食という字は「人に良い」という説明がされますが、そう理解してもいいのでしょうか。
確かに、「食」という文字は、上部は「人」で、その下に「良」が入っています。ただ、この「良」は、「良い悪い」の「良」と同じではないのです。「食」の文字は食べものが容器に入っているところをイラストしたものです。上部の「人」は容器の蓋です。下部の「良」は足のついた容器で白の部分に食べ物が盛られています。時代とともにその形が整理され、「良い悪い」の「良」と同じ形に整理統合されています。それで、食と良は、直接はかかわりがないのですが、でも、「良い悪い」の「良」という文字は、穀物をもとにつくられていて、大変に興味深いです。今から3000年前の、中国の古代遺跡から発見された甲骨文字には、「良い悪い」の「良」という文字の原形が刻まれていました。それが、次のイラストです。
この中央にあるのが、米や麦などの穀物を表しています。その上下にある波線は、水を表しています。「良」は米や麦などの穀物を水であらってきれいにしている様子をイラストしたものだというのです。(『学研漢和大字典』・藤堂明保編・学習研究社)その意味するところはどこにあるのでしょう。穀物の食としての特徴は保存がきくことです。保存ができれば、食料確保のために狩猟をしたり、牧畜をしたりしなくても、畑を管理すればそこで生きていくことができるようになります。しかし、その大切な穀物も長期にわたって保存するとヨゴレます。ところが水で洗うと、そのヨゴレは落ちます。また、水につけることで芽を出す、つまり再生できることも特徴です。そのことと、わたしたちが、日常生活で「良い」と言っていることを重ねてみると、「良い」という言葉の意味を深くとらえることができます。良いということは、よごれている心を洗うこと、心を洗ってリフレッシュすること、というように考えること。穀物をもとに、そのような、わたしたち人間にとって大切な言葉である「良い」という言葉に説明をつけることができるのです。さらに想像をたくましくしてみると、穀物である米をご飯にして食することで、心に、心を洗う「良い」状況が生まれることがあることに気づきます。うまいなあ。おいしいなあ。と心に感じ入ったとき、心は洗われています。
そういえば、山に登っていたときのことに、こんなことがありました。山に行くときは、おにぎりを持って行きます。パンですと力が出ないのですが、登山の途中で疲れ果てたとき、おにぎりをかじると、不思議なことに力がわいてくるのです。疲れていた気持ちは、どこかに消えました。おにぎりを食べたことで、疲れは洗われたのだと想像することができます。そのように、食が、自身を復活させることを、子どもに伝えたいですね。
【総括】(竹井塾長)
皆さんは、おにぎりは好きですか。私は大好きです。お米そのものの味が一つにまとまった日本の味です。宮崎駿監督のジブリ作品で「千と千尋の神隠し」という映画がありました。そこでは、主人公の女の子をはげますために、男の子がつくったおにぎりを渡します。そのおにぎりを、涙をボロボロ流して食べるシーンがあります。そのシーンに、私は、心がしびれます。お米(おにぎり)には、日本人の心に響くものがあります。
娘のバレーボール合宿で、岐阜の山奥に行ったとき、「銀の朏」というお米に出会いました。近くのスーパーで買うお米よりはるかに高価でした。妻が「おいしそう、買ってみよう」と決断したおかげで、夕食に「銀の朏」を食べることができました。
そのお米の味は、ここで伝えることは限界がありますが、お米で幸せになれたことは伝えられます。お米で日本人は、幸せになれるのです。
「お米で幸せになれるとばい!!」
竹井塾 塾長 竹井 秀文
“ もう一つの給食論 ” が生まれる!?
2017年6月からスタートした「竹井塾」。「これでいいのか子どもの食」を主なテーマに、小学校の現役教師らが家庭や学校における食をめぐる「現在」を問い、求められる姿を追求し続けています。その「現在」が端的に顕れるのが、子どもたちのセーフティーネットとしての役割もある給食です。
八洲学園大学の渡邉教授は連載の第16回で、学校給食を「お膳立てしすぎ」の一例にあげ、こう述べています。
「その観点からいえば給食も良し悪しです。毎日、栄養士さんが献立を考え、しかも飽きのこないように調理してくれていますが、お膳立てしすぎている印象を受けます。栄養や楽しさなども満たす、完璧なお昼の食事を実現しようとしてくれているのです。それはいいことです。が、その結果、お母さんたちは「我が家では多少手抜きをしてもいいかも」となってしまうのです。教育のあり方、という原点に立てば、本来は逆でしょう。家庭できちんとした食事を摂る環境を整え、学校はあくまでも補助。極端に言えば学校給食ではリンゴ1個、パン1個、牛乳1本などの最低限のものを用意し、後は家庭で判断して必要な分を持参、というのが食の本来の分担の在り方のはずです」
単純な二者択一では片づけられない根源的な投げかけであるこのくだりを、「竹井塾」の他のメンバーをどう読み込んだのか。時あたかも、神奈川県大磯市で業者委託の学校給食(中学校)の残食問題がメディアで大きく取り上げたばかり。それを含めて聞きまわり、「その通り」となるのか、それとも、「大激論」に発展して“もう一つの給食論”を生み出す契機となるのか。乞うご期待!