第20回 学校給食を考える
参加者
- 竹井 秀文(名古屋市立公立小学校 教諭/竹井塾塾長)
- 藤原 涼子(仮名・公立小学校 栄養教諭)
- 岡澤 京子(仮名・公立小学校 栄養教諭)
- 西秋 勇一(仮名・特別支援学校教諭)
- 菅谷 朝香(仮名・特別支援学校教諭)
- 内田 正幸(食品ジャーナリスト)
「お膳立て」をめぐって①
「竹井塾」の第15回から3回、八洲学園大学の渡邉達生教授の「食は道徳を超える」をテーマにしたインタビューを掲載しました。それまでの座談会出席者とは異なった、たとえば「お膳立てしすぎない給食」などの観点からの発言もありました。皆さんは教授の発言をどのように受け止められましたか。
納得できることもありました。たとえば、食は根源的なものでそれによって生命をつなぐことができるがゆえに、そこにもっと触れさせなければならないという主旨の発言などです。その機会を持たせて食の大切さを感じさせるという意味で、また、日本は豊かであるがゆえに食の根源が見えなくなっているという指摘にも、なるほど!と思いました。
※注:渡邉教授は第16回でこう述べている。
大災害や緊急事態では飢餓感に襲われる可能性もあります。それを教えることは困難さを伴いますが、たとえば田植えをしてお米になるまでが実は簡単ではないことを体験するだけでも、食の根源を見つめ直すことはできるのではないでしょうか。勤務する学校でミニトマトを栽培したことがあります。育てていくなかで小鳥に食べられたりしてしまう。大切に育てたのに実を付けても大きくはならない。そこで子どもたちは、「こんなに小さなトマトでも育てるのは大変なんだ」と実感したはずです。飢餓には遠く及ばないものの、稲籾から白米にするまでを体験することなどを含め、食べ物を育むことも大事な経験になるのではないでしょうか。
私は給食で二つのことを大事にしています。一つは楽しいはずの時間に辛い思いをさせないということ。もう一つが子どもたちに経験をさせることです。「おにぎり学級」では、ご飯が来たら子どもたちにおにぎりを握らせました。もちろん、衛生上の問題があるのでそれをクリアした上のことです。握っている時に「お米の一粒はみんな。握ることでクラスが一つにまとまる」などと話しかけながらね。すると子どもたちはよく食べるんです。上げ膳据え膳ではなく何か手間をかけさせる。つまり、食べるまでに関わりを持たせれば「いただきます」と「ご馳走様」だけでは見えない、作っている人との関係性にも目が向きます。給食当番でも、わかめごはんのわかめを混ぜるだけでも子どもたちの反応は違い、それだけで残食はありませんでした。
給食でもプロセスに関わらせれば、子どもたちに変化が現れるのですね。
それだけで給食が盛り上がります。子どもたちが何かしら関わりを持つ給食に工夫するという発想の転換をすれば、学校給食も食の根源を見つめ直すきっかけにはなるでしょう。
渡邉教授は、家庭できちんとした食事を摂る環境を整え、学校はあくまでも補助。そして、食を教える側が、お膳立てされた食(給食)の楽しさだけに目を向けさせることにも疑問を投げかけています。
現在の日本は豊かで、季節を問わずに色々な食材が世界中から入手できます。それを考えると、さまざまな食文化を経験させることができるし、その方向性にある給食も理解できます。逆戻りするのは難しいかもしれません。
「お膳立て」については、そうしない場合はどうなるのかと考え込んでしまいます。「お膳立てした給食」が当たり前として位置づけられていますから、そうではない給食に保護者からクレームが入りはしないかと危惧します。学校給食は3食のうち1食ですが、子どもや家庭だけではなく社会の要請に応えようと、食材やメニューを豊富化させ、美味しさも追求して進化してきたと思います。しかし立ち止まって考えた時、それで子どもたちの精神が本当に育っていくのかを突いたのが、渡邉教授の指摘ではないでしょうか。それを、“学校給食を見つめ直してみようではないか”という提案として受け止めると、結局は家庭における食に還るのでしょうね。とすれば渡邉教授の思いが教員だけではなく、保護者にも浸透することを望みます。