第76回 食と食育をめぐって③

参加者

  • 柿沼 忍昭(曹洞宗渓月山・長光寺の住職。『食禅 心と体をととのえる「ご飯」の食べ方』の著者)
  • 八木 眞澄(NPO法人 日本フィリピンボランティア協会・顧問)
  • 竹井 秀文(名古屋市立公立小学校教諭/竹井塾塾長)
  • 内田 正幸(食品ジャーナリスト)

自分で育て、つくることから‐家庭科・台所

内田-

子どもが分かれば親も変わる!をキーワードに、食の見直しを進めようとしていますが、子どもたちに関心を持ってもらうために、何が求められているとお考えですか。

柿沼-

自分でつくることです。私は地元の小学校で食育授業をしたことがあります。自分たちで給食をつくるとみんな、生き生きとした表情になります。父母や農業組織の協力を得ながら、学年ごとに役割を振り分けて、作物を育て、味噌を仕込み、それを食材にして給食をつくることを実践しました。
6年生の授業では、食にとって大切なのは「自給自足」だということをテーマにし、そのためには種子が生命線であることと、にも関わらず、多くは海外の穀物メジャー(大手穀物商社)に牛耳られているという話もしました。

八木-

いま、食育のなかで学校菜園の取り組みも出てきていますが、食べ物の成長過程を見せていくことは必要です。タブレットを見せるだけでは匂いや温度が感じられません。それはニセ物だと思います。家庭でも同じでしょう。ご飯が炊ける匂いや、まな板で野菜を刻むトントントンという音など、五感がフル活用され、食欲がわいてくるものです。それが食の原風景だと思います。また、柿沼さんが話されたように、子どもは自分たちで育てたものは大事にするし、それで食事をつくれば生き生きとしますね。

柿沼-

給食を自分たちでつくることは、算数や科学、社会科などすべての勉強に関わってきます。給食以外に、生きる技術を学ぶことができる教科に家庭科があります。これは文字通りの総合学習であり脳トレの場です。独り暮らしをすればわかりますが、家庭科で学ぶ生活技術がなければ日常はままなりません。家庭では台所です。そこには生きるための生活技術がすべて詰まっていると言ってもいいでしょう。それらに向き合わずに「誰かがやってくれる」と、母親や他人に委ねていていいのでしょうか。

八木-

アメリカでは「子どもをクリニックに行かせたくなかったら、キッチンに入れろ」とよく言います。子どもたちに野菜を栽培させるのが難しいなら、台所で食事をつくらせるようにすればいい。毎日でなくてもいいのです。また、ある程度の年齢に達すれば、「あなたの体はあなたの食べたもので出来ている」と、食べるものには自分で責任をもたなければならないことを教えなければならないでしょうね。

柿沼-

生活技術や食に関心を持たせることも教育です。にもかかわらず、学校では稼ぐこととそれで何かを買うという「食い扶ち」を教えているだけでしょう。食は切った張ったの世界なので危険を伴います。だから技術がいるわけで、それを学ぶのは小学校1年生から始めても遅くはありません。6年生で食べることのすべてが分かるようでなければならないと思います。

八木-

保育園に勤務していた時、オヤツづくりさせましたが、子どもたちに「猫の手」を教えれば包丁を持てるようになります。また、学校だけの役割ではありませんでしたが、昔は12歳になれば自分で食を賄えることができましたよね。

柿沼-

食についてさらに言えば、それは最高の道徳教育は食だということです。禅も、すべての修行が整った時、それが何に顕れるかは食事のつくり方と食べ方だ、と教えています。それがわかるのは、道元禅師が遺した『典座てんぞ教訓』です。「典座」とは禅寺において「食」を司る重責を担う役僧のことです。道元禅師はその典座職の行うべき職責を、非常に細かく丁寧に説いています。

八木-

私も『典座教訓』に触れたことがあります。その内容は、それぞれが持っている命を大事にしようという心遣いだと解釈しています。つまり、それは食育そのものであり、道徳でもあるのです。また、食を語れない道徳はないと思います。

竹井-

「竹井塾」の初期の頃、「食は道徳を超える」というタイトルで、八洲学園大学の渡邉達生教授のインタビューを掲載しました(第15回~17回参照)。それにつながるお話ですね。