第15回 食は道徳を超える(パート1)

参加者

  • 渡邊 達生(八洲学園大学 教授)
  • 内田 正幸(食品ジャーナリスト)

「食」で経験する人間を生かそうとする何か

内田-

今年6月から、“もう一つの食育”の在り方を考えるために、現場の教師らと「竹井塾」をスタートさせました。その報告をかねたメールのやり取りのなかで渡邉先生は、米づくりの際に見かけた小動物たちによる食うか食われるかの争いごとのシーンの一部始終に触れ、最後に「食べることは道徳を超える」とのメッセージを発信されました。私たちの想像の範囲を超える衝撃的な表現でした。その意図するところを教えてください。

渡邉-

春から秋にかけて、一ヶ月に一回は一週間ほど田舎に帰省し、米作りをしています。そこでは、カエル、ヘビ、ミミズなどが、捕食して生きている姿を目にすることになります。その食の場面は、容赦のない厳粛な場面で、自分を生かし、生きて行くことは厳粛な営みでもあることを思い知らされます。
人は、生き方を道徳でもって考え、時にそれを大上段に構えます。が、思えば、道徳は人間に対してのプラスアルファのところがあります。食はプラスアルファではなく、生きるための基本であることを、改めて、思い知らされた気がしたのです。
道徳のことを考えてみると、例えば正直でありたいと思っても、「自分が正直だと言い切ることは難しい」というように、そうはできない自分がある。なかなか出来ない自分を自覚しながら、しかし、何とかして良い方向に自分をもって行きたいと自分を戒める―それが道徳だと思います。つまり、道徳は善い行いをしましょう!ではなく、また、善い行いが出来たから道徳的、なのではありません。突き詰めれば、習慣的に善い行いをしている人に道徳心は働いていないとも言えます。
これを電車の席を譲ることに置き換えてみましょう。電車のなかで困っている老人などを見て、いつも「どうぞ」と席を譲る人に、実は道徳心はありません。なぜなら、習慣化しているからです。一方、そのような場合に「今日は疲れているからどうしよう、でも、あの人困っていそうだから席を譲ってあげようか」と迷っている人が道徳的なのです。その通りにできなくても、その人にはシコリが残ります。そして「いつかは席を譲ろう」と思う。その思いは往々にして忘れてしまいがちですが、また同じような場面に遭遇した時に、「この前は譲れなかったけど、今回は譲れるかもしれない」という勇気が湧いてくる、それが道徳なのです。それは悩める人間を明らかにすることで、大切なことではあるのです。
が、食は、そんな悠長なこと言っていられません。ですから「食べることは道徳を超える」のです。明日、生きていくために今日、食わなければならない。それは明日の元気の心配を今日しなければならないことであり、それを通してしか自然体としての自分の生命を積み重ねていくことができないのです。
都会での食生活は「今日はカレーにしようか、シチューにしようか」と迷っても、その食のお膳立ては、そう困難なことでもありません。ところが、米づくりをする故郷での生活はそうはいきません。近くに商店がないので、材料の調達から始まりすべてを自分でこなさなければならない。贅沢な食材があるわけではなく、暑い時期ならトマトやキュウリに包丁を入れずにそのままかぶりつくことも増えます。それでも、トマトに塩をつけて食べると「トマトの力!」を実感するし、キュウリは熱っぽさを軽減してくれることも体感できます。
疲れている時に冷蔵庫を開けると、陣中見舞に来てくれた弟が置いて行ってくれた甘夏が目に留まったことがありました。時期外れだし美味しくないだろうと高をくくっていましたが、食べてみると実に美味く、「明日、ガンバロー」という気持ちになったから不思議です。このように、食という営みには生命体としての自分が欲しているものに出会い、そして満足していくという何かがあるような気がします。

内田-

理屈ではなく、「これを食べたい」と身体が欲する経験はしばしばあります。

渡邉-

そう、それは頭に支配される理屈に因るものではないですね。身体、あるいは生命体を維持していくための理屈で人間を生かそうとする何かに因るものです。これを「サムシング・グレート」(偉大な何か)と名付けた人がいます。こうしたことは食以外にも見られます。ホトホト困り果てた時に急転直下、困り事が解決することがありませんか? 良い方向に自分を持っていってくれる不思議な何か。それが生命体には予めセットされていて、それが他人や環境との出会いへと結びつく、あるいはまた、欲している食にありつくことができるのではないか―そう考えると、生きていることも面白いです。もちろんその証明はできませんが、そういう何かに人は守られているような気がしますね。

内田-

食べることが、その「何か」の原点かもしれません。

渡邉-

その考え方、いいですね。食べることで生命体に潤いが走ります。食べることはただ胃袋を満たすだけではなく、心も満たしてくれます。それを感じ取るためには、飽食やお膳立てされた食に甘んじるだけではなく、自らの食を成り立たせる困難に関わることも必要でしょう。たとえば、誰も用意してくれない、周りにコンビニなどがない状況のなかでどうやって食べ、生きていくのか? 不連続ではあってもそれを経験することで、食の在り方と自分の力の源が解る気がします。
わたしは、そうした経験をせざるを得ない田んぼ仕事を終えて帰京すると、家内のつくってくれる食事には、絶対、文句は言えません。

内田-

食育で教えなければならないのは、そうした食の根源的な捉え方かもしれません。

【総括】(竹井塾長)

竹井 秀文

私のふるさとは、福岡(博多)です。盆と正月は、両親に孫の顔を見せることが親孝行だと思い、帰省します。

帰省するたびに、母(おふくろ)は、がめ煮(筑前煮)をつくってくれます。その時、必ず味見をお願いされます。年二回しか会わない、私に味見を頼むことに毎回違和感を感じつつも、味見をすると、「ちょっとうすか~。(少し薄い)」「こゆいばい。(濃い)」と不思議と味がわかるんです。

その度に、おふくろの味が自分にしみこんでいることを実感するのです。そして、自分の原点がここにあることを自覚するのです。

「おふくろの味こそ、自分の原点ばい!!」

竹井塾 塾長 竹井 秀文