第21回 学校給食を考える
参加者
- 竹井 秀文(名古屋市立公立小学校 教諭/竹井塾塾長)
- 藤原 涼子(仮名・公立小学校 栄養教諭)
- 岡澤 京子(仮名・公立小学校 栄養教諭)
- 西秋 勇一(仮名・特別支援学校教諭)
- 菅谷 朝香(仮名・特別支援学校教諭)
- 内田 正幸(食品ジャーナリスト)
「お膳立て」をめぐって②
菅谷さんは、「お膳立てし過ぎない給食」という渡邉教授の指摘を、「学校給食を見直す」きっかけの提案として受け止めています。
学校給食を考えると、生産者の立場があり、容易に減らすことはできないなどの問題も横たわっているようですが、おにぎりと味噌汁だけでもいいと思うこともあります。食べることを考えさせるために、当たり前ではない状況が必要かもしれません。それが食を考えるきっかけになるからです。これは道徳教育と同じで当たり前のことを考えさせることが大事。「廊下を走ってはいけない」や「挨拶する」意味を考えさせることが道徳教育です。食についても給食が当たり前ではないことを教えないといけない。もしかすると、子どもたちは親御さんが給食費を払っていることを意識していないかもしれませんね。それを知るだけでも「だから食べられるのだ」という意識が芽生えてくるし、一つの学びになります。勤務する学校の給食費は一食200数十円。「そんなに安くできるのか」と私自身が驚いたぐらいです。そのことを子どもたちと一緒に学ぶことは、「食べられる有難さ」を考えることにつながるので大事だと思います。
渡邉教授は、食は家庭が主で学校が補助と指摘していました。それが本来であり、疑いの余地はありません。しかし、家庭の食が逆に、“リンゴ一個やパン一個だけ”という実態を感じ取ることがあるので、食事のきちっとした容を給食で示さなければならないと思っています。朝食は菓子パン一個だけという子どもは実際にいるし、それでも「食べてきたからよかったね」となってしまうほど。少ないけれども朝食を欠食する子どももいますからね。
何かは食べてくるけれど、満足ではない家庭が多いと思われるなかで、給食も軽いもので済ますことができるのか、です。それを可能とする前提は、家庭で何かを作って子どもに持たせることとなりますが、現実にはそれが難しい。遠足のように年に数回なら頑張れるけれど毎日となると、お母さんも働いているケースが多いので朝は時間がなく、忙しいとなってしまうのです。
家庭における食の力が落ちてきているから、学校給食は「食の最後の砦」となるのでしょうか。それはともかくとして、私の母親世代も仕事をしていましたが、思い起こせば、手作りの家庭の味であり、それなりに満足できる食事でした。
かつては食事については周りに頼れるところがなく、自分で素材から準備して調理しないと一日の食事が回らないという時代でした。私の母も惣菜は買わずに今でも手作りしていますが、今は、惣菜も買えばいいし外食もあるので、「これを利用しない手はない」となるのでしょう。
家庭では食事を作らなくなったのかを感じるようになったのは20年ほど前。実際、スーパーでお母さんたちの買い物かごの中を見ると出来あいものばかり。外食産業も身近にあり、価格も安いので家庭で作らなくても食べていける時代なのです。
外食と言えば軽いネグレクトの家庭のことが思い浮かびます。おカネに余裕があると外食ばかり。ないとカップラーメンで朝食は食べてこない。少数ですが、そういう家庭があることも現実なので給食の存在は大きく、「この一食だけでもきちんと食べて帰りなよ」という思いになります。親には「家庭で食事はきちんと作ってね」とアドバイスはしますが、言葉で変わるほど事は簡単ではありません。
学校給食は欠食児童対策からスタートしたこともあり、かつては保護者の期待は大きいと感じることもありました。現在勤務している特別支援学校では、給食にかける保護者の期待には大きいものがありますが、飽食の現在、一般的にはあまり期待は寄せられず、「お昼は学校で食べられればいい」程度に受け止めている家庭もあるのかもしれないという疑問を持っています。