第38回 食と宗教③キリスト教と「テーブルバンド」

参加者

  • 加藤 英雄 神父(カトリック東京教区木更津教会 主任司祭)
  • 内田 正幸(食品ジャーナリスト)

旧約聖書の「支配」の意味とは

内田-

食は生きるための基本ですが、宗教がそれに影響を与えていることもしばしばです。キリスト教は食をどのように捉えているのでしょうか。

加藤-

神が最初に時間と空間を造り、その空間に天と地、そして動物と植物を造り出しました。旧約聖書には、人間はこれを支配しなさいという意味の一節があります。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」がそれです。
ここだけを読めば「人間の繁栄のために、人間が自然を支配し、自由に利用することを神が望んでおられる」という解釈が成り立つかもしれませんが、「支配せよ」とは世話をしなさいということです。この「支配」は、人間の繁栄のために自由に使うなどと神様は言っておられるのではなく、人に、すべて「あるもの」の世話をしなさいと言っているのだと思うのです。もっと言うと、すべてあなたに与える。そのすべてのものの世話をしなさい―と。
たとえば、王様は力を持っています。それは自分に任されている人々、皆を面倒見ることが出来るからです。「王様」を人間に、「人々」を自然に置き換えれば、自然が自然として生き続けていけるように、人間が自然の調和を勝手に破ってはいけない。人間は、自然の在り様をよく研究し、自然のために働きなさい―となります。これが「支配」の本来の意味だと思います。

内田-

人間は万物の頂上ではない、と。

加藤-

頂上ではなく、一番下です。一番下と言いうのは、キリストが言われる王様は仕えられるためではなく、仕えるための者だからです。皆に命令して自分に従わせるものではなく、自分がみんなの世話をするものだからです。一番上になりたい者は、王様になりたい者は皆のために一番働きなさいということなのです。
人間は自然に支えられて生きているわけですから、食物を育んでいる自然に対してもっと謙虚でなければなりません。このことに関して、私が説教で取り上げるのは日本人とマグロについてです。

内田-

マグロですか?

加藤-

日本人はマグロを好きで、世界のマグロの30~40%を消費しています。その結果が資源枯渇です。日本はあくなき消費を賄うために蓄養マグロを輸入し、国内では養殖マグロがスーパーに並ぶ時代です。エビも事情はあまり変わらず、です。近年は世界第3位に落ち込んでいるものの、日本は輸入大国であることに変わりはなく、すべてが養殖エビです。そうしたことを話しながら、贅沢品ともいえるマグロなどを食べなければいけませんか? そこまで食べ尽くしていいのですか? 日本人の「支配」は間違っていませんか? と説いています。

「一緒に食事をすることの大切さ」を説いたイエス・キリスト

内田-

マグロやエビの話が出ましたが、加藤神父は、現在の日本や子どもたちの食についてどのような印象をお持ちですか。

加藤-

インスタント食品が多く、お母さんの味がなくなっていると思いますね。それと、一緒に食事をするということが疎かになってきています。キリスト教は「テーブルバンド」、つまりはつながりを大切にしています。日本でも食卓を囲むのは人とつながっているからです。家族だけではなく、「一緒に飯を食った仲じゃないか」という関係もあるでしょう。それと同じです。
キリストに呼ばれ、罪人、徴税人が今までの悪い世界を離れてキリストの世界に入って、キリストと一緒に食事をするのです。つまりは聖なる食卓に着くのです。ある時、その様子を見た人物が、弟子に向かって「お前の先生はなぜ罪人たちと一緒に食事をするのか」と問い質すわけですが、それに対する言葉が「テーブルバンド」、つまりは仲間であり、つながりでした。一緒に食事をすることは親密であり、それをイエス様は大切にしていたのです。これについてイエス様は、「罪人の中に入っていくのではなく、私の中に招いているのだ」という言い方をされ、一緒に食事をすることの大切さを説いています。

内田-

一緒に食事をすると食だけではなく、共にする人についての情報もわかりますよね。それでも近年の日本人の子どもの食は、孤食やバラバラ食が増えてきているようです。

加藤-

親御さんが、「食事はバラバラでも構わない、塾通いをさせて能力さえつけば…」と親の世界観を押し付けているから、一緒に食をしなくても構わないとなってしまうのかもしれませんね。しかし、家族がバラバラの食事では、食べ物の味すらわからなくなってしまいます。また、一緒に食事をしないと、親子関係のつながりが希薄にならざるを得ません。さらに、親の価値観の押し付けは、子どもの世界の自由さを認めないことでもあると気付かなければならないでしょう。(第39回に続く)