第39回 食と宗教④キリスト教と「過越の食事」

参加者

  • 加藤 英雄 神父(カトリック東京教区木更津教会 主任司祭)
  • 内田 正幸(食品ジャーナリスト)

ミサの出発点は

内田-

加藤神父のお話しをうかがうにあたり、キリスト教と食について少し調べました。すると、キリスト教において、その初めから集会の中心として守られてきたのは食事であり、それが「共食儀礼」であり、パンとワインをイエス・キリストの体と血として飲食するミサ(聖餐(せいさん))だという解説がありました。

加藤-

ミサは食事です。キリストによって導かれ、神の国へ歩む出発の食事です。
過越(すぎこし)について少し説明しましょう。
エジプトの奴隷状態にあったイスラエルの民について、神はモーセを指導者として「約束の地」へ向かわせようとしますが、エジプトの妨害に遭います。そこで神はエジプトに対して十の災いを臨ませます。十番目の災いが「エジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国の初子」が滅ぼされたことです。その時、神の言葉に従って、「家の入り口の二本の柱と鴨居」に小羊の血を塗っていたイスラエルの民の家を、神によって使わされた滅ぼすものが過ぎ越しました。
つまり、神様によって滅ぼすものが遣わされ、滅ばすものが過ぎ越していった。「生きなさい」と。血を塗ったイスラエルの民の家を過越していったその出来事を大切にしているのです。過越の食事は、滅ぼすものが通り過ぎるその時、出発の用意をして食事をしなさい、と言われたその食事のことであり、エジプトを出発するための食事、神様から与えられた道を歩む出発の食事というわけです。
モーセと「約束の地へ旅立つ」ことがキリスト教の原点であり、ミサの出発点でもあるのです。ですから、一緒に集まって食事をするのです。
カトリック教会のミサでパンとぶどう酒が供えられる時、司祭はイエスが最後の晩餐でなさったと同じように「賛美の祈り」を唱えます。「神よ、あなたは万物の造り主、ここに供えるパン(ぶどう酒)はあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです」と…

大きな力が働いている「食事」

内田-

ミサを単なる儀式として捉えていましたが、「命をいただく」ことも含めた感謝の気持ちの表れの場だったのですね。また、キリスト教の食事で思い起こすのは「最後の晩餐」ですが、これも「過越の食事」と考えると、イエス・キリストが弟子たちと一緒に食事をしていることに納得できます。

加藤-

ユダヤの人々の食事の理想は、屋外でブドウ棚がある場所にテーブルを置き、祖父母に父母、そして子どもたちが笑顔で語り合いながらするものです。つまり食事は一緒に、そして「与えられています」という感謝が根本になければなりません。ところが日本では、「与えられている」のではなく、「おカネを出せば何でも買える」と思っているのではないでしょうか。そして、家族が一緒に食事をする考えもなくなりつつあるような印象があります。
食事は眼に見えるものを食べるだけではなく、「与えられている」ことへの祈りと感謝の気持ちが心の内にあり、心が豊かになるようでなければなりません。当たり前のことですが、食べるものは与えられているのです。植えつけ、耕し、育て、そして刈り入れて料理をする。食べるものはすべて神様からいただいたことを忘れてはいけません。同時に、野菜や果物のために働いている人を忘れてはいけないのです。これは魚や肉についても言えることで、食べる時、その出来事にはものすごく大きな力が働いていること。そこに思いを至らせなければならないことを強調したいですね。

内田-

孤食時代の日本には、私が親から躾けられた「お百姓さんありがとう」という感謝と、「テーブルバンド」(※第38回参照)が求められているようです。

加藤-

子どもたちに伝えたいことは、スーパーで売っているパック詰めされた肉や魚は、元々は草原を走り歩いていた動物であり、海を泳いでいた魚であって、「生きていた」ということです。

内田-

「与えられた」命をいただかなければ生きていけない。親世代も知らなければならないことですね。