第74回 食と食育をめぐって①

参加者

  • 柿沼 忍昭(曹洞宗渓月山・長光寺の住職。『食禅 心と体をととのえる「ご飯」の食べ方』の著者)
  • 八木 眞澄(NPO法人 日本フィリピンボランティア協会・顧問)
  • 竹井 秀文(名古屋市立公立小学校教諭/竹井塾塾長)
  • 内田 正幸(食品ジャーナリスト)

食は信頼関係‐毒は盛っていない!

内田-

和食の本家本元である日本で、食が乱れていることから「禅的に、食生活を見なおしてみませんか」と『食禅』を著した柿沼さん。一方の八木さんは、食育が提唱される20年以上前から、栄養士として小学校、保育園などで「食育」に取り組んでこられました。食は生きる基本ですが、その言葉だけをもって食の本質や食事の大切さを伝えることに難しさを感じています。

柿沼-

食は信頼関係です。信じなければ食べられませんからね。それがどこで培われてきたのかを考えたことがあり、結論として出てきたのが母親のお乳でした。そこで信頼を育んできた。だから、口にいれることができるのです。親が子どもに毒をあたえることはまずありません。美味しい食事をともに食べることで、信頼関係は確かなものになっていくのです。つまり、食べる行為は帰依なんです。ところが現在の世の中は、親と子が育んできたその絆を、「“お金さえ出せば”という効率が裏切っている」と言い表せます。

八木-

子どもの食はすべて大人に委ねられています。ですから食は大人の問題と言ってもいいでしょう。食卓や子どもたちの食が乱れているのは、数十年にわたって食を生活の中で大事にせず、「お金さえ払えば食べられる」へと突き進んできたことの裏返しだと思います。かつてはどのような食であれ、食卓を家族が一緒に囲むことも含めて生活のなかで大切にしてきました。

竹井-

食が疎かにされてきたというのが、ここ数十年の日本なのでしょうね。

柿沼-

現代の食は、誰かをイメージしてその人のためにつくるわけではなく、マネージメントの結果です。だから、食べものではないものを“食べ物”と称しているだけで、根本的にはフェイク食品と変わりありません。
禅宗において、食事の前に唱えられる偈文が「五観ごかん」です。その四つ目に【正に良薬を事とするは形枯ぎょうこりょうぜんが為なり。】、五つ目に【成道じょうどうの為の故に今此のじきを受く。】とあります。現代語に訳せば四は、食事は飢え死にしないための最良の薬、つまり、医食同源の考え方ですね。
ただ飢え死にしないためなら猫であれ犬であれそのために食べています。そこで五です。仏の道を実践するためにこの食事を有り難く頂戴致します、という意味になります。【成道】は仏教的には悟りですが、皆さんにとっては生業を成り立たせるために、食事を頂きますという覚悟を意味します。そのためには信じて食べなければなりません。ところが現代の食は、「よく信じられますね」というのが実態ではないでしょうか。
それはともかく、食は生涯背負っていくものなので、食育によってある日突然、解決するわけではありません。そこで食のカウンセラーが求められるわけですが、それでも基本的な食事で変わるものだと思っています。

八木-

そうですね。私が保育園に勤務していた時、ピーマンをはじめ緑の食材が食べられない子どもがいました。そこで隣に座って、「先生はあなたが食べられないものはつくっていないから」と言い続けました。本人は嫌な思いをしたかもしれませんが、3か月かけて食べられるようになりました。

柿沼-

お寺にお手伝いに来てくださっている女性も野菜が食べられませんでしたが、私がつくると食べるんですよ。

八木-

つくってくれた人との信頼関係なのでしょうね。

竹井-

食は、つくってくれた人をはじめ、毒は盛っていないという信頼関係が大切なことにあらためて気づきました。それを他人に委ねたり忘れてしまうことが、どのような結果をもたらすのかも考えなければなりませんね。