第80回 記憶に残る食②
参加者
- 渡邊 達生(八洲学園大学教授)
- 八木 眞澄(NPO法人 日本フィリピンボランティア協会・顧問)
- 竹井 秀文(名古屋市立公立小学校教諭/竹井塾塾長)
- 内田 正幸(食品ジャーナリスト)
「食の原風景」
八木さんが前回指摘した「食育に重要なのは『食の原風景』」ですが、それに着目したきっかけを教えてください。
ある少年院の院長さんとの会話でした。その院長さんは、「子どもが立ち直れるかどうかは、『食の原風景』を持っているか否か。それがあることが大事」と話されたのです。もちろん、立ち直りにはそれ以外の要因もあるのでしょうが、私は、そこに着目することも大切だと痛感しています。少年院の話は置くとしても、日本は今、世界から食べ物を輸入して豊かな食生活を謳歌しています。ところが、「では、あなたの食の原風景って何ですか」と問われて、スッと答えられる人は少ないのではないでしょうか。渡邉先生の「天ぷらにソース」のエピソード(第79回参照)は、まさに食の原風景ですが、それを都会だけではなく、それ以外の地域で生まれた人も持ちにくくなってきているように思います。都会も地方も一様に、です。
コンビニに頼って、唐揚げなど脂っぽいものばかり。意外とおいしいのですが、私の記憶においしいと刻み込まれているのは、クジラ肉です。物流の乏しい時代、貴重なクジラの冷凍肉を担ぎ屋さんが九州の山の中まで何時間もかけて運んできていました。年に数回しかなかったから貴重だし、それが届くと食事の時間は待たずに、そのまま切って、家族で食べていましたね。うまかったですよ。
食の原風景はイコールではないにせよ、「おふくろの味」に近いものになるのでしょう。ところが、それもいまやコンビニに取って代わられ、テレビCMまで流れる始末です。「おふくろの味」も画一化してしまった象徴的な出来事だとうんざりしています。スーパーマーケットはしばしば「あなたの冷蔵庫」と形容されますが、コンビニは「あなたの『食の原風景』です」となりかねません。
家庭の味は微妙なさじ加減、味加減で出来上がっています。それが定着して自分の味覚になるのです。だから、結婚当初は騒動になります。「何かが違う」とね。ところが徐々に折り合っていくのです。
そして、画一的ではない家庭の味になっていくのですよね。
そう、それがまた子どもの味の原点となるわけです。田舎に帰って母親に「昔のあれをつくって」と頼むことがあります。それを食べると郷愁が湧いてきますよ。
食の原風景とはまさにそのことでしょうね。
それがあるかないかが子どもの成長にとって大きいと思います。
話題は変わりますが、私は栄養士としての長い経験の中で、途中から「人間はどう食べているか」に関心が向かいました。他の多くの動物と違い、人間は一人一人が弱いので群れをつくらなければならない宿命を負っています。だから食べ物を分け合わなければなりません。で、分け合う人たちは仲間となるのです。それに気づくと冠婚葬祭に食べ物が付き物なのはそのためであることが分かり、と同時に、それは相手のことを思いながら分け合うという、道徳の根なのではないかとも考えるようになりました。
そうですね。お盆の供養もご先祖様と一緒に食べることを旨としていますからね。
食べ物を分かち合うことが、人間を人間たらしめているとも言えるのではないでしょうか。赤の他人と食を分かち合えるのは人間だけです。他の多くの動物は、食べ物を奪われようとするものなら牙を剥きますからね。結局、分かち合いの気持ちは道徳の教科書で教えることや宗教的な教えではなく、食はそれを自然に学べる場だと思います。だからこそ、孤食は避けようとなるのです。