第79回 記憶に残る食①

参加者

  • 渡邊 達生(八洲学園大学教授)
  • 八木 眞澄(NPO法人 日本フィリピンボランティア協会・顧問)
  • 竹井 秀文(名古屋市立公立小学校教諭/竹井塾塾長)
  • 内田 正幸(食品ジャーナリスト)

心を満たす食とは

竹井-

食育基本法の制定(2005年)以降、食育がブームになりました。「竹井塾」ではこれまで、教育関係者へのインタビューにとどまらず、世界の食にも視点を広げながら、現在の日本の食にとって何が欠けているのかを考えてきました。テーマごとに私がコメントをしてきましたが、それ以外にふと浮かんできたのは、いまの子どもたちが大人になった時、はたして心を満たす食はあるのだろうか?という素朴な疑問でした。

渡邉-

私は大分県の田舎で育ちましたが、子どもの頃の食生活が今でも身に染みついています。たとえば天ぷら。これを食べる時に何をかけると落ち着くかというとソースです。
大人になり、外で知人と一緒に天ぷらを食べる時、お店の人に「ソースを持ってきてくれますか」と頼むと、みんなびっくりします。他の人は天つゆですが、「そんな湿っぽいモノで」と心の中で呟いてしまう私がいます。もちろん、家内も子どもも天ぷらにはソースです。  

八木-

私の出身は静岡の山の中ですが、天ぷらは天つゆではなくてソースでしたね。

内田-

エッ!私は天つゆ派です。

渡邉-

地域の中で育まれてきた感覚があり、大人になっても故郷で味わった食材や食べ方に出遭うと懐かしさがこみ上げてきます。飾らない自分が出せるからです。だから、子どもも親も学校も、地域の中に伝統として残っている食材や食べ方をないがしろにすべきではないと思います。その地域を思い出す便よすがとでもいうのでしょうか、辛く寂しい時にその食べ物をそっと差し出されたら、涙が出るし力が湧いてくると思えるからです。

八木-

子どもは、すべての食を大人に委ねなければなりません。だから親が調えてくれた食事の有難さや心の安らぎを引きずって生きているのです。それが心の豊かさにつながるのではないでしょうか。

渡邉-

そうですよね。自分が育った故郷の手がかりがないと、大人になって落ち込んだ時に支えてくれるものがなくなってしまう気がします。いまは、流通が発達して食材のほとんどすべてが手に入る時代ですが、一方で食の画一化が進んでいます。それを否定はしませんが、長い目で見るとそれでは物足りない。人には、そう感じる人間性が絶対あるはずです。

八木-

流通の発達で食材は近くなったものの、しかし、「遠い食」でもあるのです。たとえば野菜。どこの国で誰がどのように作ったかが分かりません。加工食品を含めれば、料理としてすぐ食べられるという意味で食は近いけれど、素材はすごく遠いというのが日本の食の現状です。

渡邉-

かつては物流が今ほどではなかったから、手近にあるものだけで一年を過ごしていました。野菜なら冬は地面の下の根菜類だけ、夏は地面の上にあるナスやキュウリなどばかり、というようにね。つまり人は、自然の体系に抗いながらも自然からいただくものを四季折々にうまく見繕って生き長らえてきたわけです。そういう自然の中で生かされてきた部分を歴史や文化として残してきたわけで、それを伝えていなければならないし、そこに子どもやお母さんはもっと関心を向けるべきですよね。
物流がいつ破綻するかわかりません。一年中、いろんな野菜が手に入ることを前提にしているとおかしなことになるし、スーパーやコンビニがなくなると「どうして生きていけばいいのかが分からない」となってしまいます。

内田-

しかし、食育はそこまで踏み込まず、何をどれだけ食べればいいのかという方法論偏重のような印象を受けます。

八木-

もちろん、子どもの生活習慣病や医療費の増大という課題もあるので、それも大切です。また、子どもの孤食や家族のバラバラ食という問題もあるからなのでしょうが、私は、食育には「食の原風景」という視点が重要だと思っています。

竹井-

渡邉さんにお話いただいた「天ぷらにソース」は、文字通りの、渡邉さんにとっての「食の原風景」になっているのでしょうね。