第90回 「竹井塾」を振り返って④

内田 正幸(食品ジャーナリスト)

「和食」から「『和食観』を活かす」へ(後編)

和食文化とは、「自然の尊重」という日本人の気質に基づいた食習慣、つまりは身の回りの食材を上手に食べるという生活習慣であり、それを伝えてきたのは料亭などではなく、なによりもまず、一般家庭の食事だった。ところがこの文化が消えつつあり、ユネスコの無形文化遺産登録はその警鐘である―これが「竹井塾」第89回で伝えた主旨である。
今回は、消えつつある文化の実際に迫る。

日本人の食はご飯を主食として、汁と菜と漬け物を副食として添えるのを基本とした主食と副食で成り立っていて、これが健康食「一汁三菜」として、世界からも注目されている。しかし、主食のご飯が日本の食卓から消滅しようとしているのだ。

首都圏の子どもがいる主婦を対象に、食卓の実態を調べ続けている大正大学の岩村暢子客員教授の『残念和食にもワケがある―写真で見るニッポンの食卓の今』(中央公論新社 2017:調査対象413世帯)によれば、朝食にご飯を食べる人は4人に1人(2015年)だった。しかも、和食とは縁遠い冷凍ピラフやドリアなどを含めた結果である。

また味噌汁が食卓に並ぶ回数は、平均で週2回弱(2012~2015年)であり、それに代わり卓上には麦茶や炭酸飲料が目立つという。この現象について同書は、「この背景には、近年の献立の考え方の変化が少なからず影響している。(中略)いまは『ピザに刺身』『グラタンにキムチ』『パンにおでん』というように、食べ手の好きなモノを並べて同時に食べる食事が増えている。そこで口直しやリセットが欠かせなくなっているのだ」と結び、これらを“流し込み食べ”と命名している。

実は“流し”という言葉は、日本人の食生活に関するキーワードとして20年以上も前に登場している。「何年か前に、学校給食の栄養士の報告で、子どもたちの『ばっか食い』(偏食)、『流し食い』(噛まない)のことを読んだ。孤食・個食ということも聞く。歪められて食環境の一つだ」(『サバイバルの運動』所秀雄・非売品 1999年)。
“流し”の解釈は異なるものの、二つの文章から導き出される結論は、20年以上前に子どもだったいまの大人にとって流し込む食べ方に違和感はなく、確実に子どもへと伝わっていることである。

和食はまた、主食のご飯とともに副食を食べるからおいしいという献立となっている。ご飯と一緒に副食を食べるというスタイルは、他の米食の国にも存在している。分かりやすいのは韓国のビビンパ。食器の中でご飯を野菜類などと混ぜ合わせて食べるが、日本では、ご飯をおかずとともに食べるにしても、素材の特徴を活かして盛りつけられた一品として、それを「口中で混ぜる」という食べ方になる。たとえばちらし寿司。器の中で混ぜることを大方の日本人はまずしない。魚介類のバリエーションを楽しむために、一つの器に盛られた具を目で楽しみ、そのままおいしく食べるのである。

箸文化を洗練させたのも和食の特徴だ。伝統的に、日本、韓国、中国、それに漢字を用いたベトナムの人々などが箸を使ってきた。中国ではご飯が箸、スープ類は匙が一般的だが、かつては匙でご飯を食べていた。韓国は中国から入った儒教を重んじてきたことで、今でも匙でご飯を食べる。箸は脇役だ。ちなみに、中国でご飯を食べる道具が匙から箸に変わったのは、粘りのあるお米を食べるようになったからだという。

これに対して日本では、箸でご飯を食べ、おかずをつまむ。また、韓国と違い、ご飯と汁の器は手に持ってよく、匙は使わない。つまり「箸を使って碗を手にしながら食べる」のが日本における食事作法であり、和食文化の一端でもある。

ところが最近、家庭における箸の重要度は相当に低下している。その理由として指摘されているのが食べ物や食べ方の変化だ。箸を使わずにすむパンやカレーライスにパスタなどが食卓に多く登場し、四季を感受できる名脇役の食器もまた、近年はワンプレートが幅を利かせているという。
これに加えて「ながら食べ」に「スマホ食い」である。食事に向き合わず、片手が塞がっていては「箸を使って碗を手にしながら食べる」のは不可能だろう。

和食に限らないが、食文化を考える上で欠かせない視点は、食事は単に腹を満たすだけではなく「コミュニケーションの場」として重要であるということである。

家庭で食卓を囲む食、地域の祭事などにおける食、そして年中行事としての食。こうした家庭や地域の結びつきを強めるために「郷土料理」が欠かせなかった。ところが、都市化・過疎化などの理由から、地域の中でさまざまな行事や習慣が消え、家庭でも地域でも郷土料理が残らなくなり、それさえも“学校給食頼み”というのがニッポンの食事情なのである。

「文化」とは民族・社会・地域によって異なる価値体系のことを指し、「食文化」とは文化の食に関することである。また、「観」は仏教用語で「物事を細心に分別して観察し道理を悟ること」を指す。外見(これも観の意味の一つ)重視の“インスタ映え”だけではなく、もう一つの「観」が活かした食の在り方を立ち止まって考えていきたい。