第89回 「竹井塾」を振り返って③

内田 正幸(食品ジャーナリスト)

「和食」から「『和食観』を活かす」へ(前編)

「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録されたのは2013年。有識者の検討会で日本食文化の内容等を検討し、日本の食文化を特徴づけるキーワードとして「自然の尊重」を抽出。これに基づいてその特徴がまとめられ、2012年3月に 「和食;日本人の伝統的な食文化」と題してユネスコへ登録申請し、2013年12月に登録が決定された。ここで重要なことは、「竹井塾」でこれまで何度か触れてきたように、登録されたのは「和食をめぐる食文化」であり、和食の具体的なメニューではないことだ。

ユネスコ無形文化遺産保護条約は、民俗芸能や伝統技術といった分野の登録・保護が主な目的だったが、2010年に「食」のジャンルが加わり、「フランスの美食術」、「地中海料理」、「メキシコの伝統料理」、「ケシケキの伝統」などが登録されてきた。「和食」はそれらに続いて登録されたが、いずれの料理も、その地域の伝統文化や生活習慣と密接につながっている。

そこで、日本人の伝統的な食文化について考えてみたい。

「和食」を無形文化遺産として登録するかについての審議にあたって、ユネスコの政府間委員会は、和食文化を理解するためのポイントを発表している。少し長いが引用する。

「和食」は、食の生産、加工、調理や消費に関する技能、知識、伝統に基づく社会的習慣である。それは、自然資源の持続的な利用と密接に関わる自然の尊重という根本的な精神に関連している。和食に関する基礎的な知識と社会的・文化的特色は、正月行事にその一典型を見ることができる。(中略)これらの料理は、特別な器に盛られ、家族やコミュニティが集って食される。地域で採れる米、魚、野菜、山菜等といった自然の食材がよく用いられる社会的習慣である。家庭料理における適切な味付けその他の「和食」に関する基本的な知識や技術は、家庭で家族が食事を共にする中で伝えられるものである(後略)

農林水産省 | 「和食;日本人の伝統的な食文化」の提案の概要 より引用
※下線・筆者

登録が決まった直後から「和食」の文言だけが切り取られ、クローズアップされてきた。そこで俎上に上ったのが「ハンバーグは和食か、ラーメンは和食に含まれるのか?豚カツは、牛丼は?」などの疑問だった。しかし、前述したように登録は個々のメニューを対象にしていない。そのポイントは下線が示しているように、「自然の尊重」という日本人の気質に基づいた食習慣、分かりやすい言葉では、身の回りの食材を上手に食べるという生活習慣となるだろう。これは「竹井塾」第88回で取り上げた「身土不二しんどふじ」の精神とシンクロする。

北海道から沖縄まで日本は南北に長く、四季折々に多様で豊かな自然があり、これに寄り添うように食文化も育まれてきた。だから、たとえば正月の雑煮も出汁の素材や餅の形まで地域によってまちまち。それを伝えてきたのは料亭などではなく、なによりもまず、一般家庭の食事だった。

ところが、一般家庭では「和食;日本人の伝統的な食文化」の分が年々、悪くなっているのである。

「日本の食文化は今、大きな曲がり角にきている」と言われてから久しい。料理をする家庭が減り(内食の減少)、食生活の大部分を外食、中食、ファストフードなどに頼る家族が増加。家庭料理も各国の料理が入り乱れ、いまでは「正月料理」や「おふくろの味」も商品戦略の一環に位置付けられている。その影響は若い世代に表れ、某大学教授によれば「学生たちに食事の内容を聞くとそもそも献立という発想がない」というのである。無形文化遺産に登録されたとはいえ、諸手をあげて喜べない様相というべきだろう。

さらに、農林水産省の食育に関する意識調査によると、「家庭や地域で受け継がれてきた伝統的な料理や作法を(次世代に)継承している国民の割合」(2017年)は約38%に過ぎない。その理由として同省が挙げているのが和食への負のイメージだ。具体的には「手間がかかる・面倒」「塩分が高くなりがち」「地味、茶色」など。その下で進行しているのが、旬の食材を上手に選んでおいしく食べるという生活の知恵が尊重されなくなり、「食べ物と私たちとの関係」が希薄になってしまったことである。

とはいえ、「竹井塾」第70回~第72回で、東京・赤坂の和食料理店の阿部修さんは、その文化は日々の中で気付くことがあるとして、こう話している。

われわれのような料理人は、時間をかけて出汁を引くので『手間』はかかります。(中略)だからといって、家庭料理はプロを目指す必要はありません。いまは、出汁だけではなく、ほかの食材も簡単に手に入ります。それを利用すれば、家庭の献立に和食を取り入れることは難しいことではないと思います。和食=面倒と考える必要はありません

「和食」が面倒という呪縛から解放されたとき、身の回りの自然への畏敬の念が生まれてくるはずである。