第75回 食と食育をめぐって②
参加者
- 柿沼 忍昭(曹洞宗渓月山・長光寺の住職。『食禅 心と体をととのえる「ご飯」の食べ方』の著者)
- 八木 眞澄(NPO法人 日本フィリピンボランティア協会・顧問)
- 竹井 秀文(名古屋市立公立小学校教諭/竹井塾塾長)
- 内田 正幸(食品ジャーナリスト)
食はコミュニケーション‐自分にとって「良い食事」を考える
ケニアの留学生はインタビューで、「家族が一緒に食べるのは当然」と話していましたが(第65回参照)、日本では社会的な諸条件から、家族で食卓を囲む機会が少なくなり、家族がバラバラに食事をすることが当たり前になってきています。
バラバラ食でも家族は成立するのでしょうが、一緒に食事をし、そのなかで、食べ物などの話題を共有することができるのが食卓です。ですから、親世代には、「子どもの共感する心を育てるのは食事の場だ」ということを強調したいですね。「美味しい」や、甘い、辛いなどの感情表現ができ、しかも言葉のキャッチボールができるわけですから。それ以外のコミュニケーションでは相手を傷つけるようなこともありますが、食にはそれがありません。「トマトが美味しくなってきたね」の一言でも、旬をはじめとした食の情報に触れさせることもできます。
食事はまた、時間とのコミュニケーションでもあるんです。スマホ食いなどの「ながら族」は別として、私たちが慣れ親しんでいる食事の作法は850年以上も前からのものです。その時代の人たちと同じ食べ方ということは、その時代の人たちとコミュニケーションをしていることにもなるのです。さらに、仏法を聞く喜びや坐禅に臨む悦びを表現した「法喜禅悦」という言葉のように、食事はそれを感じることができる瞬間です。食べることに喜びを感じること、それを現代人は一番疎かにしているのかもしれません。
疎かにしている一方で、栄養や機能を中心に「何を食べるか」に関心が向いているのが今日です。また、家庭では時短がキーワードです。
アメリカの心理学者・マズローが「欲求の5段階説」を提唱しています。人間の欲求は5段階のピラミッドのように構成されていて、「生理的欲求」→「安全の欲求」→「所属と愛の欲求」の順に欲求が満たされると、その上の「承認欲求」→「自己実現の欲求」を欲するという説です。食に置きかえると最初の「生理的欲求」は食べたい、飲みたいなど生きていくための基本的・本能的な欲求です。次が「安全」、そして「所属と愛」になりますが、「所属」を確かめることを含めてこの三つが整う場が食卓です。ですから、そこで何を食べるかは大切ではないように思います。
手間暇をかけない時短料理が流行っていますが、手間暇かけることが女性を苦しめるのであれば痛し痒しですね。時短について言えば、お盆の霊具膳も、フリーズドライや電子レンジで“チン”の商品があります。当初は葬儀会社対応の商品でしたが、それが一般化してきました。これを味見するとそこそこに旨いんです。
非常用のおにぎりにもフリーズドライ商品があるようです。
だから、手作りにこだわる必要はないのかもしれません。「手抜きをすると心がない」というのではなく、「どうつくり」「どう頂くか」が食育の本来でしょう。生命観を伴わない食事の作法はあり得ませんが、世間の関心はその逆であり、それは執着なのです。
美味しくつくるために料理方法に執着している人も多いようですが、その度合いが進むと「食材もいいものを得る」というところまで行き着きます。
それが格差につながってくるのです。
栄養士時代は、栄養学に基づいて子どもたちに何をどれだけ食べさせるかが主眼でした。ただ、必要な栄養量などは、学生を密室に閉じ込めて得られたデータから導き出された平均値であり、代謝も人それぞれです。食べ物は平均ではなく私的な領域の問題です。ですから、正しい食事ではなく、その人にとって良い食事は何か?を考えるべきでしょうね。
食に関心を向けるきっかけは、「自分にとって良い食事とは何なのか」を見つめ直すことです。
「自分にとって良い食事とは何か?」これは、私たちの大切な活動テーマの一つとして、今後模索していくことになるでしょう。