第86回 竹井塾から進化し、新たな組織へ④
参加者
- 竹井 秀文(名古屋市立公立小学校教諭/竹井塾塾長)
- 内田 正幸(食品ジャーナリスト)
良い食事・美しい食べ方
新たな活動のメインテーマは順不同に①「滋味を伝える」②「身土不二を求めて」③「和食観の創出」、それに④「良い食事・美しい食べ方」の4つです。それぞれがバラバラの印象を持たれる方もいるでしょうが、この後に「食の学び場づくり」が続くと違和感がありません。また、私たちが置かれている食の現状を見直す提案につながります。これらのテーマは独立しているように映りますが、実はつながっています。優劣や上下はつけられませんが、①~③の根底にあるのが「良い食事」だと思います。
「竹井塾」で多くの人にインタビューし、そのなかで指摘され、印象に残ったのが「良い食事」であり、「美しい食べ方」でした。一見、豊かに映る日本の食風景ですが、その内実は子どもたちの孤食等々、「これでいいの?」と思える現実があることが分かりました。では、私たちは何を伝えなければいけないのかの一つとして挙げられたのが、「良い食事」「美しい食べ方」です。「正しい食事」ではなく「良い食事」。「正しい食事」は栄養学に偏り過ぎていて、それを否定はしないものの、「良い食事」とは何なのかという食事の在り方そのものがいま、問われているという視点です。
私の専門教科である「特別の教科 道徳」(道徳科)の本質は「よりよく生きる」ことだと思います。私なりの解釈では、「よりよく生きる」ために大切なことのひとつには人との関わりがあります。人と人との関係性をいかに高め、豊かにするかという視点がとても大切だと思うのです。それが果たせるのが食事の機会であり、家庭では食卓となります。簡潔に言ってしまうと、「人との関係性を高め、豊かにする食事が『良い食事』」となります。食事の場で心がつながって笑顔になり、「みんなと食べるのっていいよね」のような食風景とでもいうのでしょうか。そこで肝心なことは食事の内容は栄養価や食材ではないことです。おにぎりを共に食べるだけでも構わないと思います。
食事は人と人をつなぐ大切な時間であり空間だということが軽んじられていないでしょうか。それがなければ「滋味」も「身土不二」も「和食観」も絵に描いた餅にしかすぎません。
「世界の食」のインタビューでもみなさん、一緒に食事することが当たり前だと話していました。印象的だったのはケニアのケースです(第65回参照)。下宿先のおばさんに「アンタ、一人で食事しちゃダメ」とたしなめられたという話です。日本なら「余計なお世話」となりかねませんが、そんな日本人は世界の非常識なのかもしれませんね。
“家ではそれぞれがバラバラで順番に食べているので、サザエさんのような食卓には違和感がある”という意味のことを言う子どももいますから、家庭では、一緒に食べることの価値が見過ごされているのかもしれません。私は帰宅時に、しばしばコンビニのイートインスペースで独りで食事をしている子どもを目にしますが、いつも悲しい気持ちになります。
子どもたちが学校の印刷物で最初に見るのは給食の献立表です。「明日、〇〇が出る」ってみんな楽しみにしていますからね。食の基本ともいうべき食卓がカップラーメンや孤食では心が豊かにならないでしょう。
食卓が疎かにされていたのでは「美しい食べ方」を学ぶこともできません。
家庭でも、食事はコミュニケーションの場であると同時に、相手のことを考えて食べることも求められます。それが「美しい食べ方」であり、「いただきます」や「ごちそうさま」の会得につながります。これは世界共通でしょう。これからの日本は、世界の人々とつながるコミュニケーション力がますます求められます。言葉の習得だけが必要なのではありません。「和食」や「滋味」、あるいは「身土不二」は日本の食文化を表しています。それを通じて、「良い食事・美しい食べ方」で世界の人々とつながるという発想の転換が何よりも大切なのだと思います。
【博多弁の総括】
よか人間は、よか食を通して、
心も身体も豊かに高められることができるとばい!
竹井塾 塾長 竹井 秀文